川﨑一輝のブログ

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孫文って誰?(2)

第一次広州起義を失敗し、5年間香港に入国不可に成った孫文は自分達の活動を宣伝する事や、活動資金を集める為に海外に逃亡する事を決意しました。

因みに孫文が逃亡生活を始めた時期頃に世界的に孫文知名度を上げる事件がイギリスで起こります。

逃亡生活を決意した孫文は1896年に日本、ハワイ、アメリカを経てロンドンに向かいましたが、到着したロンドンで清国の公使館に連行され、監禁されます。

暫く監禁されますが、イギリス政府が事件を認知し、孫文を解放する事を求めたので、無事に助かりました。

上記の事件を孫文は「倫敦被難記」として書籍化した事で革命家として世界的な知名度を高めました。

因みに、何故イギリス政府が事件に関して気付く事が出来たかと言うと、一説に拠ると香港西医書院で孫文を教えたイギリス人のカントリーと言う人物が事件を知り、イギリス政府等に清国の公使館で不当に監禁されている人物が居ると言う事を訴え続けたからだと言われています。

無事に事件を乗り越えた孫文は日本に向かい、横浜に滞在しました。

横浜で生活していた孫文は日本滞在中だった1897年宮崎滔天と言う後々にも孫文を支援する人物に紹介されて玄洋社と言う政治団体の代表者の頭山満に出会いました。

因みに玄洋社が掲げていた主張は簡単に言うと、西洋諸国の侵略からアジアを守る為にアジアの国々は各々が国権を強化し、同盟を結ぶ必要が有ると言った主張でした。

当時はイギリスに植民地化されていた香港やポルトガルに植民地化されていたマカオ等の事例が有った為出現した主張かもしれません。

玄洋社の代表の頭山満に会った事がキッカケで孫文は平岡浩太郎と言う玄洋社の初代代表から東京で生活する費用や活動する費用を援助して貰えました。

因みに東京で孫文が生活する為の2000平方メートルの屋敷を紹介した人物は五・一五事件で殺された事で有名な犬養毅です。

平岡浩太郎の援助に拠って東京で生活していた孫文でしたが、暫く経つと1899年に中国で義和団の乱と言う戦争が起こりました。

義和団の乱とは簡単に言うと、清国内に居た義和団と言う組織と清国が結託し、大日本帝国ロシア帝国、イギリス連合王国フランス共和国アメリカ合衆国ドイツ帝国イタリア王国オーストリア=ハンガリー帝国の8カ国連合軍と戦争をした事です。

因みに何故義和団の乱が起こったかと言うと、元々清国内に義和団と言う排外主義(外国人や外国の物、思想は排除するべきだと言う主義)を持った組織が清国政府とは無関係に活動していたんですが、1900年に清国のトップだった西太后義和団の活動を支持して、欧米諸国に宣戦布告をしたからです。

義和団の乱の結果は清国側の敗北でした。

具体的に言うと、連合国軍側は首都の北京や北京に有った紫禁城を攻略して、清国に莫大な賠償金を支払わせると言う結果を引き起こしました。

実は義和団の乱が起こっている最中の1900年に孫文は惠州市で兵を起こしていましたが、失敗に終わっていたそうです。

因みに惠州市は広東省の中央東寄りに有ります。

広東省中華人民共和国の南東に有ります。

2度目の挙兵も失敗に終わった孫文は諦める事無く、清朝を倒す計画を続ける為に1904年にはアメリカ国籍を取得しています。

アメリカ国籍を取得して、革命資金を集める為に世界中を飛び回っていた孫文は1905年に東京に戻りました。

東京に戻ると、宮崎滔天に助けて貰いながら孫文は興中会と言う自身が作った組織と、光復会と言う蔡元培(さいばんげい)が作った組織と、華興会と言う黄興(こうこう)が作った組織を併せて新しく中国同盟会と言う組織を結成しました。

因みに光復会の主義は興中会や華興会の主義と合致しなかった為、興中会、華興会が中心に活動していたそうです。

又、話が変わるんですが、東京に戻って中国同盟会を作ったりしている間に孫文は東京に留学していた蒋介石と出会ったそうです。

以上の様に清朝打倒に向けて次々と行動を起こし続ける孫文でしたが、清朝が滅ぶキッカケは意外にも孫文自身が直接関与する事無く作られました。

清朝が滅ぶキッカケは実は清朝政府自身が作り出しました。

何がキッカケだったかと言うと、1911年に清朝政府が出した鉄道国有化政策でした。

鉄道国有化政策とは簡単に言うと、鉄道を国有化して、外国から借金を借りる為の担保にしようと言う政策でした。

何故清国政府は鉄道国有化政策が出したかと言うと、単純な話で当時の清国は財政難に直面していたからです。

清朝政府は鉄道国有化政策を出し、全国の鉄道を買い取ろうとしましたが、猛烈に反発する人々が居ました。

猛烈に反発した人々とは民族資本家の人々でした。

民族資本家とは簡単に言うと、外国に拠って植民地化された国の国民の中で様々な手段に拠って資本を形成した人々を指します。

清の場合だと民族資本家が誕生したキッカケはアヘン戦争の結果として締結した南京条約でした。

南京条約の結果として、上海で外国と貿易が始まると、開港した港で租界(租借地)と言う外国人が住む地域が作られ、商社が作られました。

因みに租界とは簡単に言うと、外国が租借し、行政権(行政を行う権利)・警察権を行使可能な地域を指しますが、実際は領事裁判権まで行使されていたそうで、事実上支配された地域と言っても過言では無いです。

租界に外国商社が出来ると、外国商社に雇用されて仕入や営業を担い、手数料を貰って稼ぐ清国の人々が現れ、彼等を民族資本家と言いました。

植民地化された国側に於いては民族資本家は植民地支配から解放される為の重大な役割を担っています。

何故かと言うと、植民地から抜け出す為にはお金が必要だからです。

例えば清国の場合だと完全な植民地と言うより実質的に植民地化された半植民地状態と言えたんですが、如何な方法で半植民地化されたかと言うと、最初の方は南京条約と言う不平等条約を利用して、清から土地を借り、租界(租借地)を作って、租界に強引に行政権や警察権、領事裁判権を持たせる事で、租界を事実上支配する事で半植民地化していました。

最初は上記の様に半植民地化が進んでいましたが、1895年に日清戦争に敗北すると、清は日本に返済能力を超える多額の賠償金を請求されたので外国から莫大な借金をして返済していました。

外国諸国は金を貸す事を利用して、更に土地を借りて租界を作ったり、鉄道の敷設権や鉱山の採掘権等の利権を獲得し、一帯を支配する事で更に半植民地化を拡大し続けました。

詰まり、民族資本家の様なお金を持った人々が団結しお金を出して利権を回収する事で半植民地化を遮る事が可能と言う訳です。

無論民族資本家達は外国諸国が自国の領土を支配している事に堪え切れない不満を感じていました。

従って1911年に清朝政府が鉄道国有化政策を発表し、国有化した鉄道を担保に金を借りると言う実質外国諸国に鉄道が有る一帯を支配される様な政策を進めようとした事に猛烈に反発した訳です。

上記の様に鉄道国有化政策が発表されると、1911年6月には川漢鉄道会社が反対を表明し、民族資本家を中心に次々と利権が回収され、大規模な反対運動が引き起こされます。(実際には主に中国南部の海岸部から外国に移住した華僑と言う人々が中心に成って資本を提供し、利権を回収出来ました。)

因みに、上記の反対運動は同年9月頃には四川省各地に拡大したので四川暴動と呼ばれています。

四川省は中国の大体中央に位置しています。

四川暴動が起こると、清朝政府は鎮圧する為に武漢市に駐屯していた軍隊に出動を命じました。

因みに武漢市は湖北省の東部に位置しています。

湖北省は中国の南東寄りに位置しています。

清朝政府に命令を受けた武漢駐屯軍でしたが、隊員の大半が清朝政府に反対していました。

従って同年10月頃には清朝政府の命令に背き、反旗を翻し、武漢市に位置する武昌区を占領し、最終的には長江以南の地域を攻略する事に成功しました。

上の事件を武昌蜂起(武昌起義)と言います。

武昌蜂起が起こると、清朝に属していた大半の省が清朝から独立する事を宣言し、清朝の支配力は無に等しく成りました。

上の様な状態でイギリス駐漢口領事館が清軍と革命軍の戦争に仲裁し、停戦協定を結ばせた事で戦争が終了しました。

戦争が終わると、清朝政府は袁世凱と言う人物をトップに任命し、当時フランスのパリに居た孫文も同意したそうです。

但だ、革命軍側は納得出来なかったので黎元洪を中心とする武昌派と陳其美と程徳全を代表とする上海派に分かれて清朝から独立した省の代表を集めて、新政府を作る会議を開く準備を進めていました。

武昌派は武昌区が有る武漢市に各省代表を集めて会議しようと提案し、逆に上海派上海市で会議しようと提案しました。

結果としては武昌で起こった革命だからと大勢の各省代表が武漢市に行った為に上海派が譲歩して武漢市で会議が行われました。

会議の結果として「中華民国臨時政府組織大綱」が採択され、南京市に臨時政府を置く事、共和制を取る事、再度南京に集結するが、10省以上の代表者が来たら臨時大総統選挙を実施する事等を決定しました。

因みに共和制とは簡単に言うと、君主制ではない体制で当時の人々が渇望していた体制でした。

1911年の12月25日にはフランスのマルセイユから孫文が帰国し、1911年12月29日に運命の臨時大総統選挙が開かれました。

当選条件は簡単に言うと、「各省代表が各々一票を立候補者に投じ、立候補者は投票総数の3分の2以上の票数を獲得すると当選」と言う内容でした。

結果は孫文の圧倒的勝利でした。

17省が投票したので17票で争われましたが16票も獲得し、見事に中華民国初代臨時大総統に選出されました。

1912年1月1には南京で中華民国の成立を宣言し、アジア史上初の共和制国家が誕生しました。

因みに1911年の四川騒動頃から〜1912年に共和制国家が誕生した期間までを有名な辛亥革命と言います。