川﨑一輝のブログ

雑記ブログ

アドルフ・ヒトラーって誰?(9)

突撃隊の反発の中心人物は突撃隊を率いていたエルンスト・レームと言う人物でした。

上の写真はレームの写真です。

何故レームはヒトラードイツ国軍に反発を始めるかと言うと、自分の悲願が達成されなかったからです。

彼の悲願とはドイツの正式な軍隊だったドイツ国軍に取って代わって自身が率いる突撃隊をドイツの正式な軍隊にする事でした。

因みに当時の突撃隊の規模は完全にドイツ国軍を凌駕していました。

具体的に見ると、1933年当時の突撃隊の全隊員数は約400万人で、400万人の内で武装した兵士は約50万人で、ドイツ国軍は愚かドイツ国内最大規模の武装組織でした。

一方ドイツ国軍の全兵士数は約10万人で、突撃隊の1/5しか居ませんでした。

但だ、ドイツの正式な軍隊に突撃隊が成る事は出来ず、レームの反抗心が高まり、次第にヒトラードイツ国軍に対して露骨に攻撃的な姿勢を示す様に成りました。

対するヒトラーは暴力的な態度を取るかと思ったら、

アドルフ・ヒトラーって誰?(8)

脅威的なスピードで独裁政治の基盤を築いていたヒトラーは1933年3月5日に国会議員選挙を迎えます。

結果は得票率は43.9%で前回の選挙の33.1%と比べると増加しましたが過半数には到達せず、議席数は288議席で前回の196議席と比べると、増加しました。

以上の様に選挙の結果を確認すると、ナチスは単独では過半数議席数を得られず、ナチスが目標の一個としていた憲法改正的な法律を制定する事が困難に成りました。

何故かと言うと、国会で憲法改正に匹敵する法律を通過させる為には全議員の3分の2以上の出席と全議員の3分の2以上の賛成が必要だったからです。

但だ、単独では過半数を獲得出来なかったナチスでしたが、連立政権の相方だったドイツ国家人民党を含めると、340議席に成り過半数を超えました。

更には、数日前に出されていた「民族と国家の保護の為の大統領令」と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」に拠ってドイツ共産党ドイツ社会民主党の議員達の大半は保護拘禁されて、国会には出席出来ない状況でした。

従って憲法改正に匹敵する法律を作る為の勢力は出来掛けていましたが、解決すべき問題点も有りました。

何かと言うと、上記の様な法律を国会で通過させる為には全議員の3分の2以上の出席が必要な事でした。

但だ、上の問題点も同年3月15日には解決されます。

何故解決出来たかと言うと、議院運営規則を修正したからでした。

実際に「議長は無許可で欠席した議院を排除出来、排除された議員は出席したと見なされる」や「自分の責任に拠らず欠席した議員は出席したと見なされる」と言った案を加え、保護拘禁に拠って出席出来ないドイツ共産党の党員やドイツ社会民主党の党員を実質的に出席させる事に成功しました。

以上の様に憲法改正に匹敵する法律を国会で通過させる為に必要な条件の「全議員の3分の2以上の出席」「全議員の3分の2以上の賛成」と言う条件を満たし、新国会が開かれて3日後の3月24日には最終的に全権委任法と言う響からして独裁政治を匂わせる法律が可決されました。

全権委任法とは簡単に言うと、ヒトラーヴァイマル憲法に制限されず、無制限に法律を作る事を許可した法律です。

別名では授権法とも言われます。

何故かと言うと、ヒトラー達行政を運営する行政府に国会に代表される法律を作る立法府が肝心の法律を作る立法権を含めた特定の権利を授ける事を定めた法律だからです。

以上の様に全権委任法が完成した事でヒトラーの一定以上の活動を制御していたヴァイマル憲法が無力化され、国会も無力化され、無限に法律を作れる力を獲得したヒトラーは更に独裁政治の確立に近付きました。

憲法を無力化し、国会を無力化したヒトラーが次に定めた目標はナチス以外の政党を排除する事でした。

同年6月21日にはナチスと結束していた鉄兜団と言う退役軍人で構成された組織を吸収し、ドイツ社会民主党の活動を禁止し、6月27日にはドイツ国家人民党が自主解散し6月28日にはドイツ国家党、7月3日には中央党、7月4日にはバイエルン人民党、ドイツ人民党が自主解散しました。

更には、7月14日にはナチス以外の政党が存続、設立される事を禁止すると言う究極の策を採りました。

11月12日には国会議員選挙が行われたんですが、驚く事に参加した政党はナチスだけでした。

更に12月1日には「党と国家の統一を保障するための法律」と言う法律が制定され、ナチス=ドイツと言う定義が定められ、ヒトラー率いるナチスの独裁は完成形と言って良い状況に達しました。

因みに上記の他の政党を排除する行動や国家をナチス独特の方法で区分し、区分された地域の最大単位の大管区に指導者を送り、実質的に州を無力化した行動の様にナチスの理想に国民を近付ける為に行っていた作業をナチスの人々は「グライヒシャルトゥング」と呼び、党の行動原理にしていました。

因みに「グライヒシャルトゥング」を強力に推し進める為に先述の全権委任法が可決される前の3月20日には宣伝省と言う省が設立され、首都ベルリンの大管区指導者をしていたヨーゼフ・ゲッペルスが大臣に就任し、出版や放送業界等のマスコミ業界を監視下に置き、報道・表現の自由を制御しました。

以上の様にドイツ全土を監視下に置いていたナチスですが、他にも選挙では投票内容まで確認し、ナチスに反抗的な投票をした人物を特定したり、1934年4月24日には人民法廷と言う法廷が設置され、ヒトラーナチスに反発した人々を裁くんですが、何と裁く役割は裁判官だけでなく、ヒトラーが指名した人物が担当するので、実質的には行政権、立法権に収まらず司法権まで掌握した事に成りました。

更にユダヤ人や同性愛者、精神障害者、遺伝的な病気を持っている等の人々は無差別に排除されました。

上記の様な独裁政治が展開されていましたが、国民の反発は目立ちませんでした。

実際ヒトラーの別荘のベルクホーフにはヒトラーを見たい人々が大勢集まっていたそうですし、1933年10月には国際連盟から脱退するんですが、脱退の是非を問う国民投票では95.1%が賛成し、1933年11月に行われた国会議員選挙では地域に拠っては投票率が100%、支持率が100%に到達した地域も有ったそうです。

詰まり、心の奥底では何を思っているかは分かりませんが、少なくとも表面上は強固に意思統一が図られていた事が分かります。

以上の様に国民からの反応は良好でしたが、実はナチス内部には反発者が残っていました。

誰達かと言うと、ナチスに属する準軍事組織の突撃隊の人々でした。











アドルフ・ヒトラーって誰?(7)

1933年1月30日に終にヒトラーが新首相に就任し、終に歴史に残る独裁政治の幕が開かれ始めます。

ヒトラーが新首相に就任すると、ヒトラーの首相就任に貢献したパーペンが副首相に就任します。

二人の役職が決定すると、内閣が作られ始めるんですが、意外にも内閣の人選を行った人物はヒトラーではなく、パーペンでしたが更に意外な事に内閣のメンバーは唯2人だけでした。

誰が選ばれたかと言うと、内務大臣にヴィルヘルム・フリックと言う人物、更に何大臣でも無い無任所大臣にヘルマン・ゲーリングと言う人物を任命しました。

上の写真はフリックの写真です。

上の写真はゲーリングの写真です。

因みに内務大臣のフリックには本来内務大臣に与えられる警察を管理する権利が与えられず、先述の内閣の人事も併せて考慮すると、内閣を機能させる気が無い事は明確でした。

上述の様なヒトラー内閣が発足し始めると2日後の2月2日には大統領令に拠って国会を解散し、同年3月5日には国会議員選挙を実施する事を決定しました。

国会議員選挙が開始すると、ヒトラードイツ国の軍を味方にする事に尽力し始めます。

実際に当時のドイツ国軍の中心機関の参謀本部で最上位の参謀総長をしていたハンマーシュタイン・エクヴォルトの家に訪れ、他にも軍の幹部を招いて自身が選挙で掲げる政策に関して紹介しました。

上の写真はハンマーシュタイン、エクヴォルトの写真です。

具体的にヒトラーが彼等に紹介した政策はマルクシズム、民主主義を廃絶し、東方生存圏を実行する為に再軍備を行う事でした。

因みにマルクシズムとは簡単に言うと、社会主義的な思想で、国民の私有財産を認めず、私有財産を共有し平等に分配する事で国民達はお金を稼ぐ為に嫌々労働する必要が消えると共に社会には階級が無い平等な社会が実現すると言う思想です。

又、東方生存圏とは簡単に言うと、ドイツの東側に侵略し領土を増やすと共に制服した国のドイツ化を進める事です。

更に何故東方生存圏を実行する為に再軍備を行う必要が有ったかと言うと、ドイツ軍は弱体化していたからです。

何故弱体化していたかと言うと、第一次世界大戦に敗北した事に拠ってベルサイユ条約を締結させられたからです。

具体的にはベルサイユ条約に拠って保有出来る兵力は10万人に限定されて航空機や潜水艦、戦車の保有も禁止されました。

但だ、ヒトラー自身がハンマーシュタイン・エクヴォルト達に語った様に1935年にはヒトラーベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して、上記の制限を破棄し、再軍備を進めています。

因みに当時辺りからヒトラードイツ国軍に肩入れし始めた事に拠ってナチス保有していた準軍事組織の突撃隊のレームを代表とする幹部達は反発し始めます。

上の写真はエルンスト・レームの写真です。

上記の様に軍事力を獲得する事で独裁政治の基盤を築き始めたヒトラーでしたが、更に2月4日には「ドイツ民族保護の為の大統領令」を発しヒトラーが率いるドイツ政府が集会活動やデモ活動、政党が発行する機関紙をコントロール出来る様にしました。

上記の様にヒトラー大統領令を使って独裁政治を確立し始めますが、更に大統領令を出します。

2月6日には「プロイセン州に於ける秩序ある政府状態を確立する為の大統領令 」を発します。

何故上の大統領令を発したかと言うと、プロイセン州はドイツ政府やナチスに反抗的だったと言う単純な理由からです。

実際に大統領令が発されると、ドイツ政府の副首相だったパーペンが国家弁務官と言う役職に就任しました。

因みに国家弁務官とは当時ドイツ政府から任命されて様々な州に置かれた役職で、就任した州の行政を担当するので実質州のトップの役職でした。

パーペンはプロイセン州の国家弁務官に就任すると、終に大きな権力を獲得したと満足します。

パーペンが満足だった事は当時のプロイセン州の状況を確認すると理解出来ます。

具体的に見ると、何と当時のプロイセン州はドイツ全土の実に3分の2を占めており、ドイツの首都ベルリンを有し、ドイツ最強のプロイセン州警察を有していた事が分かり、パーペンが満足気だった事も理解出来ます。

但だ、ヒトラーは無論パーペンに重要な部分を掌握させはしませんでした。

ヒトラーに取って重要な部分とは当時軍事力補強に尽力していた事からも想像出来ますが、ドイツ最強のプロイセン州警察でした。

実際ヒトラーはパーペンにプロイセン州警察を掌握させない為にプロイセン州の警察を管理する権限を持っていたプロイセン州の内務大臣にヒトラーと意思を共有していたゲーリングを任命しました。

ゲーリングプロイセン州の内務大臣に就任すると、州警察の幹部を自分に有利な人物に変え、警察組織を掌握しました。

更に州警察が力を発揮出来る様に「国家に敵意を持つ組織に対処する為には銃の使用を躊躇う必要は無い」と言う指令を出しますが、上の指令は当時ナチスに反発していたドイツ共産党に問答無用に州警察が対処する事を意味しており、ドイツ共産党から猛烈な反発を受けました。

但だ、更に上手を行くゲッペルス共産党の反発を利用し「共産党反乱の予告」と定義し、反乱に対処する為に更に兵力が必要だと唱え、ナチスの準軍事組織だった突撃隊、親衛隊とナチスと懇意にしていた組織鉄兜団から5万人の兵力を増強し、補助警察としました。

更に1934年2月24日にはドイツ共産党の本部カール・リープクネヒト館から「共産党反乱の計画書」を見つけたと発表し、州を監視する必要が有るとし次々と様々な州にドイツ政府から国家弁務官が置かれ、実質ドイツ政府が州を支配している体制が確立され、州の独立性は消失しました。

又、先述した国会議員選挙を間近に控えた2月27日には国会議事堂が放火されると言う事件が起こりました。

事件の犯人は単独犯でマリヌス・ファン・デア・ルッペと言う元はオランダ共産党の党員だった人物で、放火する事に拠ってドイツの共産主義者が結集しナチスを打倒する革命を起こす事を目指していました。

上記の様に事件は単独犯の仕業だったんですが、ヒトラーゲッペルスは事件を悪用し始めます。

最初に国会議事堂を放火すると言う事件は「共産主義者に拠る反乱の開始だ」と定義付けました。

更に「更にコミュニスト(共産主義者)の幹部は一人残らず銃殺だ!共産党議員は今夜中に全員首吊らせる!コミュニストの仲間は一人残らず牢にブチ込め!社会民主党員も同じだ!」と述べ、ドイツ共産党員やドイツ社会民主党員、共産主義者を敵としました。

次いで翌日の2月28日には「民族と国家の保護の為の大統領令」と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」を発しました。

上の大統領令では保護拘禁と言う令状無しで逮捕すると言う恐ろしい権限が許可されました。

結果としてドイツ共産党員、ドイツ社会民主党員3000人以上を逮捕されたり、拘束されました。

又、保護拘禁の威力は国民にも脅威的で国民達はドイツ政府に反抗すれば、警察に捕まると言う恐怖心を持ち出します。

更に国民の恐怖心に拍車を掛けたのが密告制度でした。

密告制度に拠って自分に近しい人ですら密告者であり、自分の敵かもしれないと言う疑心暗鬼に陥りました。

以上の様に就任から約1ヶ月足らずで脅威的なスピードで独裁政治の基盤を築き始めたヒトラーは同年3月5日に国会議員選挙に臨みます。

アドルフ・ヒトラーって誰?(6)

社会がナチスに与えた大きな転機とは1929年に発生した世界恐慌でした。

世界恐慌とは簡単に言うと、世界規模で起こる不況の事です。

世界恐慌の結果としてドイツ国内には大量の失業者が溢れ返り、無論当時の政権に対して猛烈な批判が浴びせられます。

上記の様に大衆が不満を積もらせ、有望な政党を探し、政治が機能してない状況で1930年には国会議員選挙が行われます。

結果はナチスの大躍進で、ドイツ国内で第2位の党に躍り出ました。

因みに第1位の党は選挙前と変わらずドイツ社会民主党で、第3位の党はナチスと同じく世界恐慌の混乱に乗じて得票率を伸ばしたドイツ共産党でした。

又、得票率で見ると第1位のドイツ社会民主党が24.5%、第2位のナチスが18%、第3位のドイツ共産党が13%でした。

以上の様に順調に活動していたヒトラーでしたが、1932年にプライベート面で問題が起きました。

何が起こったかと言うと、ヒトラーが溺愛していた異母姉アンゲラ・ヒトラーの娘ゲリ・ラウバルが自殺したのです。

上の写真はゲリ・ラウバルの写真です。

上記の様にゲリ・ラウバルを溺愛していたヒトラーはでしたが、ヒトラーのゲリ・ラウバルに対する愛情は相当だったそうで叔父姪と言う関係すら超えていると推察出来るヒトラー自身の興味深い発言も有ります。

例えば、ヒトラーナチスに雇われていた写真家のハインリヒ・ホフマンに対して「私はゲリを愛している、が彼女との結婚は望めない」と語っています。

又、ヒトラーの秘書のクリスタ・シュレーダーヒトラーの恋人エヴァ・ブラウンと結婚しないのか?と尋ねると次の様に答えたと言います。

エヴァは好ましい女性だが、生涯で本気で私が情熱を掻き立てられた女性は唯一ゲリだけだ。エヴァとの結婚は考えられない。生涯を結び付ける事が出来る女性は、唯一人エヴァだけだった」と語ったそうです。

以上の様にヒトラーエヴァを叔父姪と言う関係以上に一人の女性として愛していたと考えられますが、無論エヴァの自殺には大きな衝撃を受けたと言われています。

実際にゲリが自殺した事が分かると、一時は政界から引退する事すら考えていたそうですが、数日後には復帰したそうです。

又、ゲリの自殺と如何な関係が有るかは分かりませんが、ゲリが自殺した後からは終生菜食主義を取ったそうです。

1932年2月25日にはナチスの幹部だったヴィルヘルム・フリックの力でブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在州公使館付参事官に就任しましたが、無論本当に仕事を遂行する訳ではなく、公務員に就任する事でドイツ国籍を獲得する事を見越して就任したに過ぎません。

因みにヒトラーは元々ドイツ国籍を取る事を切望しており、ヒトラーは釈放されナチスが再結成される頃辺りにオーストリアの市民権を消して移民に成っていました。

先述の様にドイツ国籍を獲得したヒトラーは1932年の大統領選挙に立候補します。

因みに立候補者は全員で5人で当時の大統領だったパウル・フォン・ヒンデンブルクヒトラーナチスに次ぐ第3位の党だったドイツ共産党から立候補したエルンスト・テールマンを筆頭に在郷軍人(退役軍人)で構成された鉄兜団の代表のテオドール・デュスターベルク、作家のグスタフ・アドルフ・ヴィンターが立候補しました。

大統領選挙に立候補したヒトラーナチスを使って選挙活動を始めます。

ナチスの選挙活動は「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」と言うスローガンで行われ、相当派手な選挙活動を行ったそうです。

実際に数百万枚のポスターを貼ったり、財界から支援されたお金で購入した飛行機を使って演説したり当時は新しかったラジオを使って演説したりと斬新な活動を続け、大衆にインパクトを残したそうです。

結果として、1133万9446票(得票率30.2%)を獲得しヒンデンブルクの1865万1497票(得票率49.6%)に次いで第2位に成り、ナチスと争い続けていたドイツ共産党のテールマンは498万3341票(得票率13.2%)と大きく差を付けられました。

但だ、ドイツでは大統領に成る為には得票率を過半数以上獲得する必要が有るので上記の上位3名に拠る決戦投票が行われました。

結果はヒンデンブルク1935万9983(得票率53.1%)、ヒトラー1341万8517票(得票率36.7%)、テールマン370万6759票(得票率10.1%)とヒトラーは敗れ、ヒンデンブルクが大統領に就任する事が決定しました。

以上の様にヒトラーは大統領選挙に敗北しましたが、何と1932年7月に行われた国会議員選挙で37.8%の得票率を獲得し、230議席を獲得し、何と元々第1位の党だったドイツ社会民主党を抜いて第1位に成りました。

因みに1930年の国会議員選挙では得票率は18.3%で議席数は107議席数だったので文字通り大飛躍を遂げました。

以上の様にドイツで第1党に昇格したナチスは同年11月にはパーペン内閣に不信任決議案を提出して可決され、国会議員選挙が開催されました。

結果は第1党の座を維持する事が出来ましたが、得票率が33.1%、議席数が196に減少しました。

何故減少したかと言うと、ブルジョワジー(中産階級と言われ、豊富な資本を持ち労働者を雇う立場の人々が属する階級)の人々の支持が減ったからです。

何故ブルジョワジーの人々の支持が離れたかと言う事を知る前に前提としてブルジョワジーの人々は豊富な財産を持っていて、ドイツ共産党が掲げる社会主義の様に私有財産を認めず、皆で財産を共有しようと言う主張に反対的と言う事を認識する必要が有ります。

前提を知った上で何が起こったかと言うと、ベルリン交通会社が不況を理由に組合に賃金を下げる事を提案したんですが、組合員達は拒否しました。

続いて組合員達はストライキを行うかを決める為に投票を行いましたが、組合規則で定められた4分の3以上の賛成は得られず、ストライキは否決されました。

但だ、組合員の中でドイツ共産党派の人々は決議に反発し違法にストライキを決行するんですが、ナチス派の人々にも協力を要請します。

要請を受け、ナチスのベルリン大管区の指導者だったゲッペルスヒトラーに相談せず独断で協力を断行します。

何故ゲッペルスが協力に賛成したかと言うと、ドイツの労働者の票を増やす為でしたが、結果としては労働者の票は増えたかもしれませんが、ブルジョワジーの人々はドイツ共産党に協力したナチスに不信感を抱き、反社会主義・反共産主義を掲げていたドイツ国家人民党に流れ、ナチスの得票率は減少しました。

以上の様に得票率を下げたナチスでしたが、結果は先述した通り第1党を維持する事に成功しています。

但だ、新しい首相はヒトラーではなくフランツ・フォン・パーペンの後を継いだクルト・フォン・シュライヒャーでした。

上の写真はパーペンの写真です。

上の写真はシュライヒャーの写真です。

因みに前首相のパーペンはシュライヒャーの力で首相に成れたんですが、選挙が終わるとシュライヒャーに捨てられ、代わりにシュライヒャー自身が首相に成ります。

但だ、シュライヒャーが就任すると裏切られたパーペンがヒトラーに協力し、シュライヒャー内閣を打倒します。

更にヒトラー達はヒンデンブルク大統領の承認を得て、ドイツ国家人民党と連立し終に1933年1月30日ヒトラーを新首相とし、パーペンを副首相とするヒトラー内閣が誕生しました。





アドルフ・ヒトラーって誰?(5)

ミュンヘン一揆に拠って起こった裁判で1924年4月1日に禁錮5年の判決を受けたヒトラーはランツベルク刑務所に収容されます。

上の写真はランツベルク刑務所の入口の写真です。

刑務所に収容されたヒトラーでしたが、環境はと言うと非常に快適だったそうで、ヒトラー自身も後々当時を振り返って「ランツベルクは国費に拠る大学だった」と述べていたそうです。

実際に収容されていた部屋は日も当たり清潔で食事も上等で、差入を持って来たり面会をする事に関しても自由だったそうで、差入で大量に本を持って来させ読書し、自分の思想を固めていたそうです。

又、7月7日にはヒトラーは収容されている間は政治活動をしない事を発表しています。

何故政治活動をしないと決めたかと言うと、本を執筆する為と述べたそうです。

因みに当時に作られた本こそ有名な「我が闘争」でヒトラーが述べた事をルドルフ・ヘスと言う人物が纏めて作られました。

上の写真はルドルフ・ヘスの写真です。

上記の様にヒトラーは収容されている間に大量に本を読んだり、「我が闘争」と言う本を作ったりしていましたが、ヒトラーのカリスマ性が現れているエピソードとして刑務所の職員から始まり所長までも心服させていたと言う話が有ります。

結果として驚く事に9月頃には所長が仮釈放を申請し出しました。

無論反対が出ない訳が無く、バイエルン州政府が抗議しましたが、ヒトラーに好意的だった判事がヒトラーの為に行動する意思を示した結果、何と12月20日には釈放されました。

詰まり、ヒトラーが収容された日は同年の4月1日だったので約8カ月で釈放されると言う結果に成りました。

1924年12月20日ヒトラーが保釈されると、1925年にはバイエルン州の法相だったフランツ・ギャルトナー等に支援されてヒトラー収監後に禁止されていたナチスを再結成する事が許可されました。

上の写真はフランツ・ギャルトナーの写真です。

同年2月26日にはビュルガーブロイケラー(ミュンヘン一揆ヒトラー達が占拠したビアホール)でナチスを再結成する大規模な集会が開かれ、約4000人の観衆が結集したそうです。

因みに集会内でヒトラーが政府を批判した事も有ってバイエルン州政府に拠って2年間ヒトラーは演説を禁止され、後々には他の州にも同様の処置を取られました。

得意の演説を封じられたヒトラーナチスが活動し易い様にナチス関連のミュンヘンを拠点にしていた政党やメンバーを整理し始めました。

例えば、ヒトラーが収容されナチスの活動が禁止されている間にヒトラーに代理に任命されたアルフレート・ローゼンベルクが作った大ドイツ民族共同体をナチスに合流させ、消滅させました。

上の写真はローゼンベルクの写真です。

又、同じくヒトラーが収容されている間にナチスのメンバーやナチスの友党だったドイツ民族自由党が合体して作られ、エーリヒ・ルーデンドルフ等が指導した国家社会主義自由運動のメンバーを再度ナチスに集めました。

上の写真はルーデンドルフの写真です。

但だ、ルーデンドルフ等を筆頭に一部の人物はナチスに入らず元のドイツ民族自由党として独立しましたが、代表のルーデンドルフの人気が上がらず、新しいスターも見つからなかったので1929年には消滅しました。

他にもナチス保有していた準軍事組織だったフロントバンや突撃隊でフロントバン司令官職と突撃隊司令官職を兼任していたエルンスト・レームと言う人物を辞職させています。

上の写真はエルンスト・レームの写真です。

何故レームを辞職させたかと言うと、レームはフロントバンや突撃隊をナチスから独立した組織にしたがっていたんですが、ヒトラーは認めず、意見が対立したからです。

以上の様にヒトラーは自分の政治活動を行い易い様にナチス関連でミュンヘンを拠点にしていた政党やメンバーを整理していましたが、秋頃には上記のナチス内でミュンヘンを拠点にしているミュンヘン派とドイツ北部を拠点にしていた北部派の対立が起こり始めます。

上の対立を鎮める為に1926年2月24日にはバンベルク会議が開かれてナチスの指導部の全指導者が集められ、党が誕生した時から存在する25ヶ条綱領を改定するかしないかを議論しました。

但だ、集められたメンバーを見るとヒトラーが率いるミュンヘン派の人数がグレゴール・シュトラッサー率いる北部派の人数より多く、ミュンヘン派が終始有利と言う一方的な会議でした。

上の写真はグレゴール・シュトラッサーの写真です。

結果としてヒトラーの主張通り25カ条綱領を改定しない方針が決定すると共にナチスの指導部の全指導者は自分を指導者として認めるかと言う意見も通り、党内でヒトラーが独裁権を確立しました。

ヒトラーの独裁権が確立されたナチスは1928年5月20日に始めて国会議員選挙に挑みましたが、国内が好景気に沸いていた事も有り、票を伸ばせず12議席獲得に終わりました。

上記の様にナチス初の国会議員選挙は失敗に終わりましたが、社会がナチスに大きな転機を与えます。


アドルフ・ヒトラーって誰?(4)

ヒトラーが指導していたナチスが所属するドイツ闘争連盟はベルリン進軍を実行するに当たって味方を探し始めます。

味方を探す中で候補に上がった人物や組織の内でヒトラーの人生に影響を与える人物が居ました。

誰かと言うと、グスタフ・フォン・カールです。

グスタフ・フォン・カールとはドイツ国バイエルン州で政治家をしていた人物で当時バイエルン総督と言う役職に就いていました。

バイエルン総督に就いていると立法権と行政権が与えられるので独裁権を有していると言っても過言ではなく、当時のバイエルン州のトップでした。

バイエルン州のトップだった彼がベルリン進軍に賛成する意図を示した事でドイツ闘争連盟と接点を持ち始めます。

但だ、ドイツ闘争連盟と接点を持つ中で彼はドイツ国中央政府から強い圧力を受け始め、ベルリン進軍への積極性を無くし始めました。

彼の態度に猛烈な不満を抱いた人物こそヒトラーでした。

1923年11月8日の夜にビュルガーブロイケラーと言うビアホールでグスタフ・フォン・カールは演説していましたが、ドイツ闘争連盟を率いたヒトラーはビュルガーブロイケラーに乗り込んで占拠すると共にカールを拘束しました。

因みに上記の出来事をミュンヘン一揆と言います。

拘束すると、ベルリン進軍に賛成し協力させる為に説得を始めますが、ヒトラーは強力な助ッ人を呼びました。

協力な助ッ人とは第一次世界大戦で英雄に成ったエーリヒ・ルーデンドルフでした。

第一次世界大戦の英雄も加えてカールを説得し始めると、終にはカールもベルリン進軍に賛成の意思を示しました。

但だ、事態は簡単には終わりませんでした。

実はカールは説得を受けても内心ベルリン進軍に賛成し切って居らず、ヒトラーがビアホールを離れた隙に残ったルーデンドルフ等を騙し拘束から脱出しました。

拘束から脱出すると、既にバイエルン国防軍ミュンヘン一揆鎮圧の方針を決定していて、バイエルン国防軍副司令官だったヤーコプ・フォン・ダナーは全軍に対してバイエルン国防軍司令部の指令のみに従う事を指示していました。

更に元バイエルン王国王太子ループレヒトはバイエルン政庁に到着したカールに対して軍を使ってでもミュンヘン一揆を鎮圧する事や全軍を統率する役割を果たす事等を指示し、ミュンヘン一揆を鎮圧する準備が整い始めました。

上写真はループレヒトの写真です。

一方ドイツ闘争連盟側は1000名の戦力を一旦ビアホールに結集させた後にカールが居るバイエルン政庁に向かわせ、政庁を包囲させました。

更にヒトラールーデンドルフ達はバイエルン国防軍総司令部に向かい、ビアホールでカール達と一緒に拘束していたロッソウと言う人物の元に向かいました。

ロッソウは拘束されていた時にカールと同じくヒトラーがビアホールから離れた隙にバイエルン国防軍総司令部に行きたいと言ってビアホールから脱出していたので、国防軍総司令部に居るはずでしたがヒトラー達が行っても居らず、事態の異変に気付き、動揺します。

上記の様な出来事が起こっている中で、ヒトラー達が国防軍総司令部に訪れた同時刻頃に同じく総司令部に到着していたバイエルン国防軍の軍人のマックス・シュヴァントナーがロッソウから電話を受け、ミュンヘン市外に待機させていた国防軍を市内に移動させる命令を発しました。

11月9日の朝にはヒトラー達も動き出し、ドイツ闘争連盟はバイエルン戦争省まで一斉に行進を開始しました。

因みにヒトラー自身は第一次世界大戦の英雄ルーデンドルフも付いているからバイエルン国防軍も警察も手を出せないと思い込んでいたので、行進している人々は大半が丸腰だったり、銃を帯びていても弾は入ってませんでした。

但だ、実際は違っていてバイエルン州の警察官達はドイツ闘争連盟に遭遇すると一目散に射撃を開始しました。

射撃されたドイツ闘争連盟は崩壊し、幹部だったハインツ・ベルネが捕らえられ、ルーデンドルフは逮捕され、ヒトラーは逃走しました。

逃走したヒトラーナチスの党員エルンスト・ハンフシュテングルの別荘に逃走しましたが、11月11日には逮捕され、収監されました。

上の写真はエルンスト・ハンフシュテングルの写真です。

ミュンヘン一揆に失敗し、逮捕され、収監されたヒトラーですが、収監中に行われた裁判で人気を急上昇させます。

因みに裁判ではドイツ国に対してベルリン進軍と言う反乱を計画したと見られていたヒトラー達ドイツ闘争連盟側の人々とカール達バイエルン州側の人々の罪が問われました。

ヒトラーが人気を急上昇させた原因は大きく分けて3個考えられます。

1個目は法廷で争ったバイエルン州側のカール達の人気が急激に下がったからです。

何故カール達は人気を下げたかと言うと、決断力が無く、ズルイ態度に大衆が失望したからです。

例えば、ベルリン進軍の最初の方ではヒトラー達に賛成していましたが、ドイツ国中央政府に圧力を掛けられると、途端にヒトラー達を裏切ったり、裁判では自分達に不都合な意見が出ない様に強引に圧力を掛けたりして抵抗しました。

結果として大衆はバイエルン州側のカール達はベルリン進軍の脇役に過ぎないと認識し、ヒトラー達ドイツ闘争連盟側に脚光が当たり始めます。

2個目の理由は脚光が当たり出したドイツ闘争連盟側の中心人物とされていたルーデンドルフも罪を逃れる為に自分に罪は無いと主張し続け、大衆もルーデンドルフも脇役に過ぎないと認識します。

3個目の理由は上記の様にベルリン進軍を計画した中心人物とされていた人物達が責任を回避し続けている中でヒトラーは躊躇無く、全責任を引き受ける事を主張し続けたからです。

結果としてベルリン進軍と言う反乱を主導した中心人物と見なされ、全責任を一手に引き受けると言う勇敢な姿勢も評価され、ヒトラーは急激に人気を飛躍させます。

特に女性からの反響が大きく、毎日ヒトラーが居る留置場に花束を持った女性達が殺到したり、熱烈なファンの中にはヒトラーが使った風呂で入浴させてくれと申し出る者まで居たそうです。

因みに裁判の結果はバイエルン州側のカール達やドイツ闘争連盟側のルーデンドルフは罪を免れ、ヒトラー禁錮5年の判決を受けます。

因みに禁錮とは刑期中に労働させられる懲役とは違って労働はさせられず、収監される刑罰です。




アドルフ・ヒトラーって誰?(3)

オーストリアでの兵役を免れたヒトラーでしたが、大きな転機が訪れます。

何かと言うと、第一次世界大戦が始まった事です。

第一次世界大戦が始まる前はオーストリアの兵役から逃げ続けていたヒトラーでしたが、第一次世界大戦が始まると、何と自ら請願書を送って軍隊に志願しました。

但だ、注目したい点は彼が入隊した軍隊はオーストリアの軍隊ではなく、ドイツの軍隊だった事です。

請願書を送ると、翌日には入隊を許可する書類が届きバイエルン王国(ドイツ南部に存在していた王国)第16予備歩兵連隊に入隊する事が決まりましたが、義勇兵として参加しています。

上の写真はバイエルン王国の位置を表した写真で、写真の様にバイエルン王国はドイツの南部に位置しています。

因みに義勇兵とは簡単に言うと、正規軍には所属せず金銭的な報酬も得ずに参加する兵士の事です。

バイエルン王国第16歩兵連隊内でのヒトラーの役職は伝令兵で部隊同士の連絡を取る役割を担っていました。

但だ、大戦中には伝令兵の役割だけでなく、前線に出て戦う経験もしています。

実際にソンムの戦いでは足の付け根付近を負傷していますし、大戦末期にはマスタードガスと言う化学兵器の攻撃を受けて一時的に失明しました。

又大戦中には6回勲章を授与されていて、1914年に二級鉄十字章、1917年に剣付三級戦功十字章、1918年に連隊感状、戦傷者勲章、一級鉄十字章、三級軍務勲章と言う勲章を授与されています。

特に一級鉄十字章に関しては総統に就任した後も身に付けて大事にしていたそうです。

以上の様に第一次世界大戦終結すると、ヒトラーは所属部隊の本拠地だったバイエルン王国に向かいました。

ヒトラーが向かったバイエルン王国では1918年12月に起こっていたバイエルン革命でバイエルン=レーテ王国が誕生していました。

上の写真はバイエルン=レーテ王国の国旗の写真です。

因みにバイエルン革命とは簡単に言うと、社会主義(資本主義よりも平等で公正な社会が良いと言う主張)を掲げる人々が反乱を起こしバイエルン王国を打倒した革命です。

革命後にはレーテ(ドイツ語で評議会)と言う労働者と兵士で構成された評議会(評議をする為の機関)を中心に上記の様にバイエルン=レーテ王国が作られました。

上述した様にバイエルン=レーテ王国に着いたヒトラーは1919年2月16日からレーテに所属し、レーテ(評議会)の委員に成りました。

暫くヒトラーがレーテで活動している中でバイエルン=レーテ王国は終に当時属していたドイツ国から独立する方針を固めます。

結果として実際に1919年4月6日にはドイツ国から独立を果たしましたが、ドイツ国も無論放置する事は出来ず終にドイツ国中央政府が動き出しました。

実際にドイツ国中央政府は約6万人の軍を用意し、5月1日からバイエルン=レーテ王国に投入しました。

結果は投入して僅か2日後の5月3日には占領に成功し、バイエルン=レーテ王国は崩壊しました。

実はバイエルン=レーテ王国が独立してから崩壊する迄にヒトラーにも変化が起こっていました。

何が起こっていたかと言うと、ヒトラードイツ国軍の情報将校だったカール・マイヤー接触する機会が有ったんですが、何とスパイとしてスカウトされてドイツ国軍側に移る事に成っていたのです。

スパイとして活動する事が決定すると、スパイとして活動するに当たって必要な知識を得る為にヒトラーは人生で初めて大学で知識人達の講義を聞く機会を得ました。

1919年7月には実際にドイツ国軍に情報を提供する人物を載せた名簿にドイツ国軍に所属する情報員として登録されています。

名簿にも登録されスパイ活動を開始したヒトラーでしたが、彼の人生を大きく左右する任務を任される事に成りました。

何かと言うと、ドイツ国軍が警戒していたドイツ労働者党(DAP)を調査する事でした。

実際にヒトラーは任務通りドイツ労働者党にスパイとして潜入し、調査し始めるのですが何とドイツ労働者党の党首だったアントン・ドレクスラーが主張していた反ユダヤ主義、反資本主義の演説に魅了されてしまったのです。

上の写真はアントン・ドレクスラーの写真です。

彼の主張の虜に成ったヒトラーはドレクスラーに接触し、1919年9月12日にはドイツ労働者党の55人目の党員に成りました。

因みにドレクスラーはヒトラーの演説能力を高く評価していたそうです。

但だ、ヒトラーはドレクスラーの主張こそ魅了されましたが、ドレクスラー自身の評価は相当低かったそうで、自身の著書である「我が闘争」内で散々な評価を下しています。

上述した様にドイツ労働者党の党員に成ったヒトラーはスパイ活動以上に圧倒的に政治活動に熱中し始め、時期は不明ですが、スパイ活動を終えています。

政治活動にに無我夢中で没頭し始めたヒトラーは次第に過激な演説で知名度を向上させ、ドイツ労働者党の有望な人物とも目され始め、ヒトラー派と言う派閥も形成されていたそうです。

1920年2月24日には党内で協議された結果党名が変更されドイツ労働者党から国際社会主義ドイツ労働者党(NASDP、ナチス)に変わりました。

1921年7月29日には党内で派閥闘争が起こって一時的にドレクスラーに追放されますが、再度争いが起こってドレクスラーは名誉議長に成り実質的に権力を奪われ、ヒトラーが第一議長に就任し、党を率いる立場に成りました。

因みに第一議長に就任した頃辺りから党の支持者はヒトラーを指導者と呼んでいたそうです。

又同じ頃からムッソリーニローマ式敬礼を真似したナチス式敬礼を採用し始めています。

上の写真はムッソリーニの写真です。

上記の様にヒトラーを中心に活動していたナチス党はドイツ闘争連盟と言う同じく右派の政党が集まった組織に属していたんですが、次の活動としてドイツ闘争連盟でベルリン進軍と言う軍事行動を計画し始めます。

因みにベルリン進軍とはドイツ闘争連盟のオリジナルなアイデアではなく、イタリアのムッソリーニが率いていたファシスト党が行ったローマ進軍を真似して作られた計画です。